第二章 北の大地が待っている

北に行くかと穂高は笑う

 

先ほどまで激しく吹いていた風はやんだ。

十六回目の訪問となる上高地の大地に、また夜の静寂が戻ってきた。当時の出来事がフラッシュバックし、感慨にふける僕に月の光が差し込んだ。澄み切った、どことなく夜空に溶け出しそうな満月だった。

池田と耕運機で日本一周の旅を思いついて今日で半年、思い出は尽きない。

半年たった今、勿論後悔など微塵も感じていないが、僕の第二のふるさとに到着するまで不安だったことは確かだ。

道路をトコトコ走っている僕の横をダンプカーが轟音で通過した。赤いスポーツカーに乗った僕と同年代くらいのカップルも目にした。

 

「なぜ、僕だけがこんなにゆっくり走っているのだろう?」

普通の人間が住む世界の域からはみ出てしまったのかも知れない、もう戻れない・・・今更ながらそんなことを思った。そんな時、北帰行のエンジン音がそんな僕を叱咤した。

 

ー僕は頭上の月を見上げながら、北帰行に語りかけた。

「もう大丈夫、この旅をよい旅にしてみせるから」

 

それから三日間上高地に滞在し、その間大放浪の軍資金稼ぐために、今まで撮ってきた上高地の写真をパネルにして売った。
このパネル売りは十二回目の上高地訪問の時から続いている。村営食堂の人たちと触れ合えたのも、このパネルを買ってもらったのがきっかけだ。お陰で上高地の駐車場辺りでは、ずいぶん顔が売れて、松本電鉄・郵便局など、あちこちに知り合いができたものだ。

最初にやった時は、一枚も売れなかったが、見た目はヤクザじみたこわもての兄ちゃんが、一緒にパネルを売ってくれたのを僕は忘れない。

三日間、雨に遭い難儀もしたが、一枚七百円で一日平均六枚の絵が売れ、次なる地への軍資金が何とか整った。

第二のふるさとに後ろ髪ひかれる思いもあるが、行かなくては。

次なる大地が僕を待っている。

 

出発の前の晩、山の人たちが、僕のために送別会を催してくれた。

上高地の人々の温かさが、何よりの酒のあてで、僕はビールをくらいながら、声を限りに歌った。

 

穂高よさらば

穂高よさらば 又来る日まで
奥穂に映ゆる あかね雲
返り見されば遠ざかる
まぶたに浮かぶジャンダルム

穂高よさらば 又来る日まで
明神岳の岩の肌
返り見すれば遠ざかる
まぶたに残るSルンゼ

 

 僕に親切にしてくれたみなさん、西穂からジャンダルム・奥穂・前穂高とそそり立つ峰々・・・さようなら、僕の心の港、上高地。

どうか、明日また海原へ繰り出す一人の旅人をそっと見守っていてください。

 

 

北帰行、田んぼで一大事

 

上高地を立って15日目、北帰行は、乗鞍、松本、蓼科、諏訪、清里、戸隠を巡り、野尻湖に到着した。今日は湖畔でキャンプをしようと決め込んで、雨に追われるようにねぐらを求め、右往左往した。

いつもなら、湖をへだてて黒姫、妙高が美しい姿を現すこの場所も、今日はあいにくの雨で、一向に眺望がきかなかったのが残念でならなかった。

翌日は、直江津から日本海に沿って秋田へ向かった。七月の灼熱の太陽が、ハンドルを握る僕の腕をじりじり焦がした。

この道中では難儀な出来事が続いた。庄内平野を走っていると道脇に立っていたおじさんに声をかけられたのだが、これが難儀の始まりだった。

「兄ちゃん、ちょっとそこまで乗せてくれねっすか?」

「耕運機のヒッチハイク」なんて聞いたことないけれど、旅は道連れ、情けは人の為ならず、おじさんが言うところの、「ちょっとそこまで」乗せて行ってあげることにした。

おじさんは、僕がどこから来たとか、何をしているんか、とかいちいち聞いたりせず、じっと、もの静かに座っている。よく言えば、どことなく法隆寺金堂薬師如来像を彷彿とさせる。

それにしても、この人の「ちょっと」は一体どれくらいなのだろう?かれこれ五キロ、二十分くらい走ったくらいから不思議に感じていた。

「おじさんまだかい?」

「まだだべ。」

こんな会話が幾度となく繰り返され、「もうちょっとおじさん」は堂々と15キロも乗り続けていたのだ。

田舎の「すぐそこ」とか「もうちょっと」は都会の感覚からすると遠いらしい。田舎で道を尋ねて、「もうちょっと」を信じてえらい距離を歩かされた都会っ子の話はよく聞く。僕は田舎者だから、おじさんと、感覚的な違いはそんなにないと思っているのだが・・・。今から鑑みるに、おじさんは我々とは違う時間世界を生きている人だったのかもしれない。はたまだ、単なる、「あつかましい田舎のおっさん」だったのかもしれない・・・。

 

こんな事があってから二日後、さらなる災難が僕たちを待ち受けていた。北帰行が田んぼに転落してしまったのだ。

だだっ広い平野のど真ん中、あぜ道を抜けて国道に出ようとしたのが今から思えば無謀だった。さすがの僕でも、慣れない土地は地理感覚も頼りない。道が行き止まりになっている事に気が付かず、慌ててバックしようとしたら、後輪がみぞに豪快にはまってしまったのだ。焦った僕は、必死の思いで北帰行の救出を試みてみるものの、僕の相棒は、ズブズブ音を立て、さらに泥濘の中に引きずり込まれていく。

僕一人の力では、にっちもさっちも行かないので、とにかく人を呼んで、助けを請うしか道はない。事情を話せば、困った僕を放っておけなくなって皆で協力してくれるはずだ、これまで人情に助けられてきた僕はそう信じて人家を探し、最初に見つけた家のドアをノックした。

「すいません!耕運機が落ちてしまったんです。助けてください!」

中から一人の老爺が出てきた。

「耕運機が落ちた?・・・あんた見かけない顔じゃが、どこから来なさった?」

そんな話は置いといて、とにかく一刻も早く北帰行を救出したかったのだが、不審者だと思われてはいけないので、急いた様子は見せながらも質問に答えた。

「大阪からです。」

「え?」

老爺が聞き返してきたので、嘘でない事を示すために次は思いっきりアクセントをつけて、こう答えた。

「大阪ですねん。」

「あんた、大阪から来て、なんで耕運機がここにあるのじゃ?」

ーもっともな質問であるが、これを聞かれたら説明が長くなるので、そこは突っ込んで欲しくなかった。

僕たちのやり取りを奥で聞いていた老婆が、面白がって玄関先に、餅やお茶を持ってお出ましになった。

「なあ、婆さん、わからんなあ、耕運機がなぜ大阪から?」

僕は正直、いらだっていた。こうしている間も北帰行は、泥濘に飲み込まれ苦しんでいる。今か今かと僕の到着を待っているのだ。僕は二人に手短に、これまでのいきさつを説明した。

ところが、老爺と老婆は僕の期待通りの返事をしてくれない。

「なあ、婆さん、そんな車、この辺りを通ったかい?」

「いいや、隣のばさまと喋っていたもんで、見ておらんわ。」

この二人にはいくら丁寧に事情を説明しても、埒があかないだろうと判断した。

「とにかく落ちたんです!!」

必死の形相で僕は声を荒げた。これは少し効果があったようで、話が半歩前へ進んだ。

「どこに落ちた?」

「ずっと向こうです!」

その時、家の中から三人の若い衆が出てきた。

「ほれ、あっちの方に、耕運機が落ちてるって言ってるよ、この人が。ワシはよく分からんがのう。」

老婆が説明するもんだから、若い衆たちはますます事情を呑み込めていないようだった。しかし、僕の何かを訴えかける必死の形相を見て、とにかく行ってみようということになった。

若い衆三人を引き連れて現場へ急ごうとした時、老婆が僕に声をかけた。

「兄ちゃん、まあ、お茶でも飲んでいきなさい。」

老婆なりの心からの親切心だったのだろうか?当時の僕にはあの菩薩のような微笑みもありがたいと思わなかった。

 

若い衆の助けもあって、やっとのことで北帰行は引き揚げられた。

僕が礼を述べ、旅路を急ごうとすると、「なんで耕運機できたのか」だの「これで本当に大阪から来たのか」だの、このタイミングで面倒な質問受けることになった。北帰行の命の恩人だから、仕方なく、三人まとめて、先ほど老夫婦にしたのと同じ説明をした。

すると、長男とおぼしき一人がこう言った。

「今晩、泊まっていけ。まだお前さんのいう事がよくわからないから。」

 普通ならこの手の親切な申し出にはいつもありがたい以外の言葉はないのだが、この時は僕は焦った・・・。さっきから、どことなく噛み合わないコミュニケーションに僕ぐったり疲れていた。更には、気持ちが既に北海道に飛んでいたので、一刻も早くこの場からとんずらしたかったのだ。僕は丁重に礼を述べ、逃げるように国道に出て行った。

国道に着いたとき、なぜだかほっとした。 

 

 

 

耕運機は海の上

 

大阪を出て四十四日目、僕と北帰行は念願の津軽海峡を目の前にしていた。

並んでいた乗用車は、続々とフェリーに吸い込まれていき、案の定、僕の「北帰行」が最後に残った。

「これどうする?」

係員たちが何やらもめている。耕運機に乗って津軽海峡を渡ったものなどこれまで誰もいない、前人未到の僕の行動に困惑しているようだ。

「長さ測ってみりゃいいさ。」

巻き尺を持ってきたおじさんは、僕に端を持たせ、北帰行の全長を測り始めた。僕は車の長さによって運賃が異なることを知っていたので、おじさんが測ろうとする寸前に、手に持って入る巻き尺を前にずらし、一メートルほどサバを読むことに成功し、千七百円も安く乗ることが出来た。

「あれ、もっとあると思ったんだが・・・。」

「いや、そんなことはないですよ。こんなもんですよ。」

僕の口はこんな時、勝手にうまい言葉が出てくる。

帰りもこの切符を見せたら、また節約できる。北海道行きはさい先明るい、厄介な関門を一つ通り抜けたと思った途端、緊張がほぐれ、背中がやたらかゆくなった。背中がかゆいのも無理はない。僕は小諸から風呂に入っていなかった。

ボー!!

出航を告げる汽笛が鳴り始め、北海道に向け舟が出発した。

 

昭和四十六年七月九日、僕は待望の函館に上陸した。

やったぞ!!遂に僕は北海道の大地に足を踏み入れたのだ。その夜、北帰行の中で一人きりの祝杯を挙げた。ビールは野尻湖でできた友から貰った缶ビール、季節は真夏、道中ですっかりぬるくなっていて、何とも言えない味がしたが、腐っても鯛、ぬるくても酒には違いない。腐っていないだけよしとしよう。ぬるいビールを飲みながら、旅の道順を考えるため、地図とにらめっこた。駒ケ岳に沿って、東麓を回ることに決まり、その晩はゆっくりと眠ったら、久しぶりに母さんの夢を見た。