第一章 旅立ち

そぞろ神、降臨

愛車「北帰行」が、上高地最大の難関、「釜トンネル」の中でもがいている。隧道(すいどう)の中は、道幅が狭いので、信号による一方通行を余儀無くされる。おまけにトンネルに入るやいなや普通車ですら、ローに入れる長さ515メートル、18度の勾配と来たもんだ。他の車を先にやって最後にこの曲者に突入してみたものの、何しろスピードが違う。

 見る見るうちに前方の車は、僕の視界から消え、北帰行だけがぽつんと取り残される。もし、途中で信号が青に変わりでもすれば、向こうからバスやトラックが降りてきて、トンネル内で正面衝突は免れないだろう。
 さすがの僕も汗びっしょりだ。
 このトンネルには、その昔、強制労働で死んだ幽霊が今でも出るって噂があったっけ・・・。こんな修羅場で縁起でもないことを思い出してしまう。とにかく、ここからの脱出を成功させなければ、僕に明日はない。 僕はがむしゃらに、エンジンをふかし、出口へ出口へ舵を取った。
 その間の記憶はほとんど無い。ただ、大きなライトのかけらが瞳を直撃した瞬間、北帰行はトンネルを突破し、観光バスやトラックの大群と、出口で間一髪すれ違った事だけは覚えている。
「 命びろいや !」
おもむろにハイライトに火を付け、淡々と煙をふかせてみせたが、指先の振動は止むことを知らなかった。その刹那、目の前に、真っ青な空と焼岳が飛び込んできた。
 
上高地ー。
ここは、 僕の大好きな上高地だ。ここを訪れるのは、かれこれもう十六回目で、僕にとっての第二のふるさとだ。自分勝手にそう決めている。
 
 僕は高校卒業後、京都太秦にある現像所に務め、毎日毎日、真っ暗な暗室の中でフィルムの現像に明け暮れる毎日を過ごしていた。朝の光に早々と別れを告げ、暗室に潜り込む。仕事を終えて外に出たら、太陽は沈んだ後、ここでもまた闇の世界が広がっていた。僕はそんな闇との同棲生活を半年も続けたのだ。まるで「泳げたい焼きくん」である。
  その年の秋、友人に誘われるまま、上高地に来た。眼前には、スイス連峰を彷彿とさせる山々が広がっていて、高原の澄み切った空気を体いっぱいに浴びた瞬間、僕にそぞろ神が舞い降りた。初めて見た上高地は強烈な感覚を僕の身体に刻み付けた。
 
 この風景をレンズに収めたい、一日のうちで、この上高地が一番美しく輝く瞬間を、この手でとらえたい・・・・!!
 
身体の赴くまま、帰阪後直ぐにカメラを買い、そして二年後には写真学校へ入学した。
 上高地から僕が受けた啓示は、それほどまでに衝撃的で、その後、魅惑の大地へ足繁く通うようになったのであった。
そして、今日で十六回目を迎えるー。
 いつのまにか上高地は、いつでも帰ってこれる場所ー僕にとっての港になっていた。
 
「久しぶり、元気か。」
「やい!今日はほろ馬車か?」
 口々に親しみを込めて集まってくれる懐かしい人たちがいる。村営食堂のおばちゃん、松電のガンさん、百合ちゃん・・・久々の再開に、何度も何度も握手を繰り返す彼らの優しいまなざしに触れていると、先程のトンネルでのサバイバルが嘘のように思えてくる。
 
  その夜、静寂の中、久々の上高地への感慨に耽りながら、ハイライトをふかしていたのだが、突然、北帰行のテントの隙間から、風に混じって雨が吹き込み、寝袋が濡れに濡れた。おまけにヤカンのフタは行方不明者、スポンジのシートは風にさらわれ、彼方に飛んで行ってしまい、捜索活動に疲労困憊した。
耕運機で大阪を出てから、今日で二週間。こんな夜にはなぜだかあいつのことを思い出してしまうのだ。
 
信州焼岳
信州焼岳

破天荒な妙案

「マツ、このままじゃ俺たち駄目になるぞ!何とかしなきゃ。」
写真学校の帰り道、小さな喫茶店で、また池田のいつもの口癖が始まった。
写真学校といえば、皆高校卒業後すぐに入学して来るのに、僕たちは珍しく勤労経験者だった分、他の学生たちとは毛色が変わっていたのだろうか、二人は入学後、すぐに意気投合したのだ。僕と池田はこの喫茶店で、看板まで人生論を戦わせるのが日課になっていた。
「僕は長く生きようなんて、これっぽっちも思わん、自分で人生に一つの区切りがついたら、いつ死んでも構わん。」
「じゃあ聞くけど、今の俺たちにとって、区切りって何だよ?」
 池田がすかさず僕を詰問する。
 
 ー 僕は常々こう思っていた。
心に潤いが無い人生などまっぴらごめんだ、感動する事を忘れた心で生きていくなら、死んだ方がマシだと。そして、そう思うと同時に渇望していた。自らの身体に、岩を穿つような滝水が欲しかった。正直、今の僕には、心の中にいつも流れている水が無かったのだ・・・。
 青春の区切りがつくまで、僕が本気で打ち込みたいことは・・・?写真を撮って、絵を描いて、旅に出て・・・・・・。
 
そうだ!旅だ、旅にでよう。
 
日本は広いー限りなく広い。僕たちは毎日、マスコミによって、漫然と虚像の日本を見せつけられているに過ぎないのだ。ありのままの景色を目に焼き付け、手で触れて、そこから自分の中に生まれてくる何かを捕まえなくちゃ生まれてきた甲斐がないじゃないか・・・。
煙の立ち込める暗室で、人間がざわめき合って生きていて、そこから何の感動が生まれようか?僕は旅に出て、笑ったり泣いたり、時に恐れたりする日本人の心に、改めて感動してみたいんだ!
 
 「おい、池田、俺ら旅に出ないか?」
 
 突然口をついた僕の言葉に、池田は鳩が豆鉄砲を食らったような顔をした。
 「そうか、旅か。」
池田は腕組みをしながら静かに目を閉じた。
写真学校で机を並べていたハンパもの同士の旅が、今から始まろうとしている、僕は心の中に住みついたそぞろ神のささやきが、はっきりと聴こえ、体中からアドレナリンが溢れ出ていた。
「おい、池田、日本中を歩いてみいへんか?」
「それとも、自転車にするか?」
「ヒッチハイクもええな。」
僕が思いつくままに旅の提案をする間、池田はずっと目を閉じたままだった。そして、とんちをひらめいたお寺の小僧さんのように忽然と目を見開き、僕をまじまじと見つめ、こう言い放った。
「耕運機はどうだ?」
僕は一瞬呆気にとられた。それを見た池田はにやりと笑い、こう続けた。
「耕運機にリヤカーを付けて、キャンピングカーに仕立てるのさ。」
その後も、この破天荒なアイデアに、まだ返す言葉を思いつかない僕に、次々と旅の構想を話してくれた。話が進むにつれて、池田はでっかいずうたいを乗り出し、得意げな様子で喋り続けた。
僕の実家は農家なので耕運機の運転はお手のものだから、蓋し、これは妙案かもしれない。
「あんなものでチンタラ日本一周なんて思いつくお前は、相当変わり者やで。」
僕は最後には大笑いしていた。
 
「耕運機で日本一周」
 
この奇妙な言葉の取り合わせが、最早、僕たちにとっては、これ以上なくしっくりくる響きになっていた。まるで、サイズがぴったりの靴を履いた時のように、至極心地よかった。
 
思い立ったが吉日、二人の足を手に入れるため、僕は早速農機メーカーを訪問し、耕運機を寄付してくれるように交渉した。宣伝部の部長さんに事情を包み隠さず話すと、面白半分に高笑いされ、僕はムッとした。
「わっはっは、こいつは面白い、いや、済まん済まん、今時わが社の耕運機で日本一周しようなんて、頼もしいというか、いや、参った参った、わはははは!」
何が参っただ!僕は内心ひどく立腹して、何か言い返してやりたかったが、この失礼なおっさんから耕運機を頂戴するまでは、と腹の虫を抑え謙虚な態度を貫き通した。
 
一週間後、電話であっさり「ノー」の返事が来た。
ちくしょう!あのオッサン、随分調子いい事言いやがって、最初から僕らの事をバカにしてたんだな!
しかし、いつまでも怒っていても、事態は先に進まない。
僕は気持ちを鎮め、その後、大阪中を奔走した。
苦労のかいあって、ようやく中古で当時三万円の耕運機を手に入れた。その後、池田と二人で地図を作成し、我らの愛車を船に見立て、出発は「出航」、道順は「航路」と呼ぶという二人のローカルルールを作った。僕たちは、この旅は、まず針路を北に取ろうと決めていたので、この耕運機を「北帰行」と命名した。
僕たちは、地図の作成が終わったら、旅に関する書物は一切売り払ってしまおうと決めていた。
前もっての知識は、ものを見る目を狂わせ、感動を失わせる。
僕は旅とは「出会い」だと思っている。あらゆるモノとの感動する「出会い」が、旅の内実を豊かにさせる。だから、旅立つ前に、旅に関する本は全部売り払ってしまわなければならないと思った。
 

友からメッセージ

 

旅立への思いが心の大半を支配する一方で、僕たちにはたった一つ、共通の気がかりがあった。
年老いていく母さんの事だ。

池田は北海道に、僕は福知山に、それぞれ残してきた母さんだけには心配をかけたくなかった。出航が決まると、僕らは母さんにそれぞれ手紙を書いた。


「母さん許してください。この旅を終えたら、今度こそ、じっくりと腰を据えて、落ち着きたいと思います。

そして、信じてください。僕たちは決して馬鹿な人間ではないことを、他人に負けない立派な男であることを、強い信念を持って生きていることを。」

 

「青春に年齢制限はない」という人もいるけれど、当時の僕は青春は二十五年だと思っていた。僕はこの旅を最後の青春として賭けてみたかった。僕に残された期間は三年間ー。

草原にも心がある、海にも山にも・・・そいつらが一日のうちでもっとも輝く瞬間、その感動をこの手で掬い取ってみせる、その結晶をこの手で創造してみせるんだ。そして、心も体も燃えつくすのだ。

 

それから数日後の事だった。池田が淡々とこう告げた。
「マツ、俺、行かれへん。お前一人で行って来いや。」
 親友からの突然の告白に驚愕したのは束の間で、僕はたまらなく淋しくなって、アパートに帰ると、壁に貼ってあった地図をビリビリ破いた。地図を破いたのは、とにかく淋しかったから、一人荒野に取り残されたような気持ちになって、居ても立ってもいられなくて、衝動に駆られるままになぜか手が一人でに紙を引き裂いていたのだ。

池田はその後、僕の前から姿を消した。
「おい、僕一人で行くんか?頼むから一緒に行こうや!」
情けないくらい何度も頭を下げ、池田にに嘆願する自分が夢に何度も出てきて寝覚めの悪い朝を迎えた。
納得できない。池田は理由も言わずに僕の前から去って行ってしまった。
狐につままれたように、ぼんやり天を見上げたり、時折、淋しさが怒りに変わりもした。様々な気持ちを反芻しながら、かといって自分を納得させる術もなく、一週間近くが過ぎた頃、とうとう僕はやけくそな気持ちになっていた。
そんなら、一人で行ってやる、どうにでもなれ!

その時の僕の心境を、江戸末期に流行した「ええじゃないか」にも通じるやけくそ精神と形容してもいいだろうし、戦場に赴く若き兵士にたとえても間違いではないと思う。
とまれ、采は投げられたのだ。僕はその日から、一人用の計画を練り直し、出航日を昭和四十六年五月二十五日の午前零時に決定した。


いよいよその日がやってきた。

当日は仲間たちが盛大な見送りにやって来てくれた。
記念写真を撮ったり、別れを惜しみながらも、激励の言葉を投げかけてくれる仲間を前に、素直に笑顔になれなかった。僕の心の奥で消えないしこりのせいだ。
「そういえば、あいつ、来てないよな。」
「見送りくらい来てもよさそうなもんなのに。薄情な奴だな。」
「いや、何か事情があるのかも知れないぞ。」
僕の心は乱れていた。二年間、学校では一緒に机を並べて、喫茶店ではコーヒー一杯で閉店まで人生について語り合い、旅を決めた日から、夜な夜な顔を付き合わせ、目を輝かせながら二人して立てた壮大な日本一周の旅行プランー。

「誰も思いつかないことを俺たち、二人でやってやろうじゃないか!」

そう固く誓い合ったのに、なぜ、池田はなぜ・・・・・。
心のどこかで池田が現れる事を期待していた自分がいて、我ながら未練がましいと感じた。もどかしさは、刻一刻と出航の時間が迫るたびに、諦めに変わっていった。


間もなく午前零時が訪れようとしている。
仲間たちは、早くも万歳を始めていた。ほんとうに、出航の時が来てしまった。僕はエンジンをかけた。

 

「午前零時、行こう、北帰行!!」


ハンドルに手をかけた瞬間、後方から声がかかった。
「マッちゃん、池田の手紙!」
仲間の一人が僕に駆け寄り、池田から預かったという手紙を差し出してくれた。無我夢中で封を開けると、確かに池田の字だ。筆圧の濃い、無骨だが、几帳面な池田の字が並んでいた。

 

「マツ、生きて帰って来い。
体にはくれぐれも気をつけてな。
何の連絡もせず、許してくれ。
俺はすっかり夜の人間になった。
こんな俺は写真家を志す人間の姿ではないだろう。
ただ、こんな俺をお前に見られたくなかった。
でもな、マツが無事に旅を終えたら
是非会いたい。
お前の全てを出し切った作品を見たい。
ただ一言、無事を祈る。池田」

 

涙が頬をつたった。

その時、池田の精悍な目を思い出して、また涙があふれた。

 

仲間に泣いている所を見られないように、僕は感情の激動を懸命に抑えようとした。顔を引き締めなおし威勢よく「行くぞ!」と叫び、僕は、北帰行を出航させた。さあ行こう、北帰行!僕と行くんだ、たったふたりで。

 

こうして僕一人と一機の旅が始まった。